早大卒のアダルトチルドレン

ひとり、しなやかに、生きる。私は私。でも、自分の人生を取り戻すために。

自分の道は、切り開けるときだけ、切り開けばいい

昨日はブログを書けなかった。

 

色々と、心を動かす出来事があったからだ。アダルトチルドレンとは関係なく。それについては、おいおい書ければと思う。

 

 

今日は、仕事についてのこと。

 

かなり端折って、今の私の仕事の状況を言うと、「いずれ抜けることはほぼ決まっているけれど、少しでも早く抜けたい仕事」をしている。

 

もっと簡単に言えば、「やりたくない仕事と状況」にあるということだ。ただ、生活していくのに仕方がないから、その状況に甘んじている。本当に、「生活していくために」だけ。

 

本当は、嘆きたい。でも嘆いても何にもならないから、一応やれるだけのことはやる。

 

ブルーな気分とも、ちょっと違う。強いやるせなさとでも、言うのだろうか。

 

要するに、なんとも言えない気持ちを抱えるのだ。今日関わったその仕事に、私は平日3日を費やしている。別の2日は、また別の仕事。土日も仕事をしたり。

 

 

客観的な状況描写は、このくらいで。とにかく今は、「この状況を続けるしかない」わけなのだ。

 

そんな時、かつての私なら、「一刻も早く抜け出したい」と考えてジタバタ。失敗して、心がボロボロになるという悪循環だった。

 

それが今は、「やれることをやればいいさ。べつにうまくいかなくても」という心持ち。なんだか、落ち着いている。

 

 

これには、離婚して身軽になってしまったことも、一つの理由ではあろう。

 

ただ、色々と激動の昨年を経験して、心が成長したとも思いたい。

 

「しんどいなぁ」「なんだか気が進まないなぁ」と、思うこともある。でも、そんな自分の思うところを、今は自分で客観的に見れている。

 

「俺はしんどいと思っているんだな」→「そう思うのも仕方がないじゃないか。だってこの状況だもの」みたいに。

 

自分の気持ちを客観的に捉えられると、以前みたいにジタバタしなくなる。どうにもならないんだから。

 

 

一方、人の成長過程でよく言われることは、「自分の道は自分で切り開け」みたいなことだと思う。

 

べつに、それを否定しようとは思わないが、いくら頑張ってもどうにもならない時。これもやっぱり、あると思う。

 

自分の道は、切り開けるときだけ、切り開けばいいのではないか。切り開けるときと、切り開けない時。そのあたりの時局を見分けらる力というのも、立派な大人の要素の一つである気が、今はする。

 

いつの時も、「頑張る」ことは大事だと思う。しかし、いつの時も、現状打破を目ざす必要はない。

 

私は、そう考える。違う意見の人もおられようが、私はこの考え方で心が安定し、頑張り続けることができるのだ。

 

これに気づいたことが、心の成長だと思いたい。

 

そして、いつか必ず、自分の道を切り開ける時が来る。

不幸な家族のスケープゴートにされたアダルトチルドレン

 スケープゴート【scapegoat】 の解説
1 古代ユダヤで、年に一度人々の罪を負って荒野に放たれたヤギ。贖罪 (しょくざい) のヤギ。

2 責任を転嫁するための身代わり。不満や憎悪を他にそらすための身代わり。

 

引用:scapegoat(スケープゴート)の意味 - goo国語辞書

 

2の意味だ。

 

アダルトチルドレンは、機能不全家族スケープゴートかもしれないと思って、調べてみた。

 

 

風呂に入り、アダルトチルドレンのことを考えていると、ふと「なんで俺がこんな目に会わなきゃならんのだ!」とやるせない気持ちに。

 

すると頭に浮かんだ言葉が、「スケープゴート」。

 

私は、家族の不満や憎悪を転嫁するための身代わりとなっていた。

 

 

私の親も、生活が満たされず、幸せとは思えなかったであろう。それでも、何とか幸せになりたいと考えた。でも、どうやって?

 

そうだ!私を、成績の良い、人の言うことをよく聞く素晴らしい子どもにしよう!

 

とはいえ、自分たちが不幸だから、子どもを素晴らしい子に育てようなんて、よく意味が分からない。

 

でも、私が素晴らしい子に育てば、学校の先生やご近所さんにも認められて…ちゃんと子育てができておりますのよ。うちは幸せな家族ですのよ、オホホ…。

 

まあ、そんなところだろう。ハッキリ言って、気持ち悪い。

 

それに、そんなことで幸せな気持ちが、得られるわけがない。一時的な満足は得られるかもしれないが、満たされず、むなしい気持ちは残るはずだ。

 

 

私は遅まきながら、育った家庭がこういうおかしな構造だったことに気づいた。そして、そこから生じて、今も続いている問題。私自身のアダルトチルドレンを、克服したいと思っている。

 

だが、親は気づかない。言っても、理解できないだろう。「あなたのことを思ってやってきたことなのよ」などと、トンチンカンな言葉を返して。

 

「あなたのことを思ってやってきたこと」。これは、親の中では正しい。実際、そういう思いだったのだろう。でも問題は、心でも気持ちでもない。不幸な家族の構造と関係にある。

 

私は、家族の不幸を背負わされた。家族が幸せになるには、私が「素晴らしい子」になる役目を負った。

 

でも、それはできなかった。私はスケープゴートにされ、怒られ、否定された。

 

でも、「なんで俺がこんな目に会わなきゃならんのだ!」。

アダルトチルドレン克服の頭打ち状態か?

だんだん、親への怒りや憎しみは感じなくなってきたように思う。

 

だが、完全に感じなくなったところで、アダルトチルドレンの克服は終わりではない。

 

真の克服は、私が、私の心で生きること。自分に正直に、素直に行動して表現できるようになった時こそだ。

 

それは、まだまだ先のことのように思う。この先が、本当に難しいフェーズなんじゃないかと。

 

かれこれ30年近く、違和感や生きづらさを感じてきた。そういう行動や表現しかできなかった。

 

そういう習性を、今これから手放すことは可能なのか?

 

そこは、きっとできると強く信じる。しかしまだ、そのためのヒントは見えない。

 

日々の行動で、ちょっとずつこれまでの習性を打開した行動を取り、振り返ってみて、気づいてみて、次に生かす。

 

仕事でいうと、PDCAか。これを地道に、繰り返すほかない気もする。

 

あまりPDCAなる考えは、好きではない。しかし、一気呵成に克服できるものでもないだろう。なにせ30年のアダルトチルドレンだ。

 

今日、仕事はなんの実りもなかったけれど、ちょっと嬉しいことはあった。相手のあることだし、それを今日は書かないけれども。

 

ただ、そうした嬉しいことから起こる、今後の出来事も、私のアダルトチルドレン克服の貴重な糧となるだろう。

 

逆に悲しい出来事でも、貴重な糧となりそうだ。そんな気がする。

 

というより、そもそも「嬉しい」「悲しい」といった自分の感情。これを自分自身でハッキリと、自分の感情なんだと感じられること自体が、アダルトチルドレン克服に向けての成長なんだろう。きっと。

 

そう。私は成長している。アダルトチルドレンの克服に向けて。

 

今日は、とりとめのない文章を書いてしまった。やっぱりこの先のヒントが今一つ見えないから、一度頭打ち状態になっているのかもしれない。

 

とはいえ、今はそれで良しとしよう。ただ、まだアダルトチルドレンであることだけは、忘れるな。自分よ。

大人しくて穏やかな私だけど、本当は?

昨日の午後にテニス。今日の昼は野球。

 

正味計5時間ほどだけど、久々、というか社会人になって初めて、ずっと運動していたなという週末だった。

 

やはり私は、運動が好きだ。余計なことを考えなくていい。終わった後の疲労感も、とても心地いい。

 

子どもの頃も、運動が好きで得意だったもんな。母親は、勉強ができて生活態度が大人しくないと、私をかわいくない子どもと見なしたが。

 

それにしても、疲れた。

 

でも、前に向かえるような気持になれる。

 

今の私は、大人しくて穏やかなせいか(そして、早稲田を出ているというのが余計に)、真面目な文化人的な人と思われることが多い。

 

でも、ちょっと違うかな。本当は、ずっと座って勉強したり、話を聞いたり、考えたりするのは好きじゃない。

 

それは、やろうと思えば我慢してできるというだけだ。

 

今回テニスサークル行ってみようと思ったのも、体を動かして何かしている方が性に合ってると、なんとなく思ったから。旅行や写真サークルも考えたけど、ゆっくりじっくり話したり、考えたりするより、目いっぱい動いた方がいいだろうと。

 

旅行もいいし写真も興味あるけど、今は二の次かな。また機会があればということで。

 

そんなこんなで、私にとってテニスは正解。やはり活動すると何かを発見するが、今回はいい発見だった。

 

私は意外に、活発である。

 

明日は気の進まない仕事だけど…頑張ろう。水曜もテニスできるし。

「この良い子の母親は、私です。立派な親なんです」の結果は…

昨日夜、「明日テニスするんですけど、来ませんか」と連絡が来た。

 

久々に、今週は土日完全フリー。「行きます!」。

 

 

テニスは約5年ぶり。やはり私は体を動かすのが好きなんだと実感した。楽しかった。

 

そして明日は、野球が待っている。

 

今は、自分が好きだと思うことができる。それでいいのだ。

 

 

しかし、これが私の子どもの頃だったら、どうなるか。

 

例えば、私が「テニスをやりたい。クラブに入りたい」と言ったとする。

 

そしてまた、テニスは母親の気に入らないものだったとする。

 

「テニスなんかやってる男の子いないじゃないの。それに、サッカーの方がかっこいいと思わないの?モテるわよ」みたいに、すぐさま私の希望を否定して、やめさせようとしたであろう。

 

テニスは例だが、万事こんな感じだったのだ。

 

私がやりたいことも、母親は気に食わなければ、即否定。

 

そして私が好きだったり、やりたいことのほとんどは、母親の気に食わないものだった。私は否定ばかりされて、自分のしたいことや希望を言わない子どもになっていった。

 

幸い、少年野球だけは、母親がああだこうだ言う前に父親に連れられて、チームに入った。ただ、後になって、「やらせなきゃよかった」と母親が思っていたことは、それとなく聞いた。

 

もちろん、テニスでも野球でも、子どもがやるならば親に多少の負担はかかる。でも、私の野球の場合、膨大なお金がかかるとか、親は必ず毎週手伝いに来てくださいということでもなかった。親同士は大人の関係で、仕事を中心にそれぞれ事情があるから、手伝いの程度などは強いていなかっただろう。

 

ところが母親は、この大人の関係を嫌がる。基本、「みんなの親に気を使わなきゃいけないわね。嫌だわ」という考え。

 

何がそんなに嫌なのか。協力できる時だけ、気持ちよく協力すればいいではないか。仕事でもないし、強制されているわけでもないんだから。

 

もちろん、大人であろうと苦手だったり、合わない人というのはいるであろう。今の私にだって、そういうタイプの人はいる。

 

(母親は実際、監督の奥さんが嫌いだったようだ。ただ、当時のその人を今の私から見て、そんなに嫌うような人には思えない)

 

でも母親は、相手が苦手とか合わないとか以前の話なのだ。自分と同じ大人を前にして、自信がなさすぎる。

 

そこで、私に「良い子」を強いたのだろう。

 

「この良い子の母親は、私です。立派な親なんです」

 

そんな風に誇って、自信にしたかったのはハッキリわかる。

 

でも結果は…私は母親の理想とする子どもにはならなかった。母親には自信がつかなかった。私は、アダルトチルドレンになった。生きづらさを感じるようになった。

 

 

話は戻り、一回数百円のテニスというささいなことだけど、今日はやりたいことができて良かった。明日も野球ができる。これでいい。

 

今日の最後に。最終的に少年野球を最後までやらせてくれたことには、親に感謝の気持ちはある。でも、嫌々やらせていたんだろうから、何とも言えない心のしこりはある。

親のいないところで、安心して過ごしたかった私

花粉が容赦なく、私を襲う。

 

毎夜アレジオンを飲んで、鼻水や目のかゆみは抑えられているけど、頭がぼーっとしたり変な倦怠感があるのはいかんともしがたい。

 

このご時世、体調に異変があるとコロナ感染を疑う人もおられようけど、この時期のこの状態は毎年のこと。

 

本当はアダルトチルドレンについての、最近考えたことを書こうとしているのに、座って頭を働かすのがきつい。うまくまとめられる自信が、ない。

 

テレビをつけてもほとんどコロナで(私の見る番組の7割はNHKニュース)、見てると気持ちが暗くなるから消してしまう。仕方なしに、ぼーっと楽しめるYoutubeを見たり。活字を読むのは、かったるい。

 

そんなこんなだから、今日はついさっき思ったこと。

 

 

やっぱり、私の母親はおかしい。

 

自分の理解できない世界や物事、他人については、批判しかしない。理解しようという気は、全くない人だった。

 

もちろん、家庭外で批判をぶちまけたりはしない。でも家庭の中では、延々と聞かされる。

 

そして自分が理解できないことを、子どもである私がやっていたり、考えたりしていたらどうなるか。

 

自分の理解できる範囲内に、無理やり戻そうとするのである。

 

もし、私が戻るのを拒否すると、不機嫌になる。怒り出す。

 

私は子と言えど、他人だ。母親とは別個の人格であり、私には私の考えや意思がある。

 

どんなに連れ戻されても、私は母親の理解の範囲内から出ようとしていた。そのたびに、衝突が起こっていた。

 

 

母親の、こういうおかしな本性は、ここ一年を振り返っても変わっていないことは明らかだ。今なら関わりを避けられるし、「うるさい」と言うこともできるけれど、子どもの頃は逃げようがなかった。

 

私は、辛かった。悲しかった。親のいないところで、安心して過ごしたかった。少しでも早く、自活できるようになりたいと思っていた。

 

もう、たくさんだ。

 

未だに、解放されたとは言い難い。だからアダルトチルドレンである。でも、少しでも早く、自分の気持ちと考えで、また、自分の体で、動けるようになりたい。

「老害」は良くないけど、真の意味は…?

今日は、難しいことを書くのはやめにしよう。

 

瞬間的に、かなり強い悲しみや憎しみが襲ってくることはあった。でも、「ああ、仕方ないんだな」と心の中で処理をつけ、あまり引きずらなくなったと思う。

 

本当は、そうした気持ちは起こらないのがベストだけど、最初よりはだいぶ良い感じ。頻度も少なくなったし、気持ちの処理も少しはできるようになった気がする。

 

今は毎日起こる苦しみや憎しみも、2日に1回、3日に1回、1週間に1回…と減っていくのだろうか?

 

そのあたりは、まだわからない。

 

 

ここからは、最近思ったことを書き出してお茶を濁して…。

 

一か月ほど前だろうか。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長だった森喜朗氏が、職を辞した。女性蔑視発言で。

 

その時の氏の記者会見で、どうやら記者から「老害」という言葉が出たらしい。「らしい」と書いたのは、私は人づてにそのことを聞いたからだ。

 

そのつての人は、御年70ほど。自身も「老」の世界に足を入れており、私に「老害」という発言に対する憎しみを、ぶちまけてきた。

 

「ずっと国のために頑張ってきた人に対して、老害とは何事か!日本もひどい国になったもんだ!」

 

だいたい、そのようなことを言っていた。

 

 

私としても、確かに、「老害」という言葉は良くないと思う。年配の方に限ったことではないが、苦労して頑張ってきた人に対する敬意というのは、あってしかるべきだと思う。

 

ただ、私は「老害」の真の意味は、「お前なんかいらない」だと思う。私に憎しみをぶちまけた人は、年配の方全般を邪魔者扱いする思想の意味にとらえているようだが、それは違うのではないか。

 

例えば、タモリさんを老害だと考える人が、どのくらいいるだろうか?蛭子能収さんを老害だと考える人が、どのくらいいるだろうか?吉永小百合さんは?ひふみんは?

 

つまるところ、「老害」は、言われる方にも原因があるんだろう。「老害」発言を憎むその人自身も、何かあればそれを言われておかしくない人だと、私は思ってしまった。

 

森喜朗氏は、過去にも失言で非難にさらされたことがあった。総理大臣にもなった人だが、確か支持率8%なんていうことも。

 

私の知らない実績や努力も、あったたんだと思う。でないと、総理大臣にも、先日職を辞した会長にも、なれるはずがないだろう。

 

ただ、周囲の反応みたいなものに対する学習能力が、全く無い。氏と間近で接したことのない私にとっての、ただの印象でしかないけれど。

 

傍若無人を極めた部分があるというのだろうか。正直、あれだと「お前なんかいらない」と言われても、不思議ではないと思う。

 

アダルトチルドレンとは何の関係もないし、人の振り見て我が振り直せということでもないけれど、印象に残ったことだったので書いてみた。今日はこれまで。