早大卒のアダルトチルドレン

ひとり、しなやかに、生きる。私は私。でも、自分の人生を取り戻すために。

記憶の深さ=続く関係?親との関係だって、切らざるを得ない?

今日は、あまり怒りや憎しみの気持ちは湧いてこなかった。それならそれで、良しとしよう。

 

こうしてだんだん、怒りなどは消えていくのかもしれないし。

 

ただ、それが消えた後の、私の親に対する気持ちがどうなるのかは、まだよくわからない。自分自身が、普通に自分に確信が持てている姿は、なんとなく想像できるのだけど。

 

しかしどうなっても、これからの人生は自分自身で歩くこと。これが最重要であることは間違いない。もう私は、人生の折り返しに来ていてもおかしくないのだし。

 

 

それとは別に、今日は一緒に仕事している人と、ちょっと過去の話をすることがあった。

 

その時、私がふと気づいたこと。私の過去には、かなりの空白がある。

 

「あれ?その時何してたっけ?」という時期。まあだいたい、心を深く閉ざしていたり、実際問題として抑うつに苦しめられていた時期がそれにあたる気がするけれど。

 

もう20年前にもなる高校の頃のことなど、もうほとんど覚えていない。社会人になって数年間のことも、うまく自分でまとめられない。

 

それらは、忘れてしまいたい過去のこととして、ずっと過ごしてきた。そして思い出さないでいると、実際にかなりのことは忘れてしまったんだと思う。人間は、意外に都合よくできている気もする。

 

しかし、親との関係、特にアダルトチルドレンの原因となった機能不全家族の関係の話については、いつまでも覚えている。

 

これも忘れてしまいたい過去のことのはずだが、未だに覚えていて、かつ私を苦しめているのは、親との関係は切れずに続くことが理由だと思う。

 

だとすれば、アダルトチルドレンの卒業は、もう親との関係は極力小さくした時か、もっと極端に切ってしまった時なのかもしれない。

 

 

しかし、「親との関係なんて、そう簡単に切れるものか」と、ほとんどの人は思うだろう。実際、私だってそう思っている節がある。

 

だが一方で私は、親との関係は切ってしまわなければならない状況というのも、確実にあると思う。それは親と子のどちらか、あるいは双方が望んでかもしれないし、そうせざるを得なくなったからかもしれないけど。

 

もし、アダルトチルドレンで親子関係が切れるとすれば、「そうせざるを得ない」からにあたるだろうとも思っている。

 

これについては、離婚した私も子どもの血縁上の父親ではあるわけで、自分でこれを認めるのは、心苦しく思うけれど。

 

ただ実際、私自身は親との関係をまだ切ってはいないが、もう距離は置いている。それは、べつにそうしたいからではなく、自分が生きるために「そうせざるを得ない」からだ。

 

最も大切にしなければならないのは、「生きること」。親に支配されてではなく、自分自身で。

 

今日の最後の余談。私は「親との思い出」は、他人にほとんど話したことがない。なぜなら、本気で忘れてしまいたい過去のことなど他人に話したくないし、親の前で心から喜んだような過去は、記憶にないのだ。

未来のことを憂いて、好きな気持ちも楽しみもなくなった人間の変化

普通の大人にとっては当たり前のことが、アダルトチルドレンの私にとっては進歩。そんなことを、ここ最近感じている。

 

例えば、先の予定のことを憂いて過ごすことが、少なくなったこと。

 

ちょっと前までの私は、「明日は〇〇という予定があって、とても忙しい。だから今日は、やりたい△△を我慢して明日全力を出せるようにしよう」みたいなことをいつも考えて、行動していた。

 

もちろんこの考え方は、大人の責任ある姿勢として、完全に否定されることではないと思う。だが、程度問題はあるのではないか。

 

私の場合は、超極端だった。毎日、仕事でも遊びでも、ミスや過ちや間違ったことを絶対にしてはいけないと、心の中で考えていた。機能不全家族で育ち、親の承認を感じられなかった私は、人に嫌われたり人が遠ざかっていることを、ひどく恐れていたために。

 

すると、どうなるか。いつも先のことを憂いて、行動もセーブするようになる。たとえ何かをしても、未来の気がかりが心を支配し、今この瞬間は心ここにあらずの状態になる。こうして、何事も本気で楽しんだり、熱中することができない状態を生む。

 

結果、心から好きで楽しめることは何もない、私という人間の誕生だ。

 

本来、好き嫌いというのは、人の個性をよく表すものだと思う。でも、私には本気で好きな楽しんでいることはない。だから周囲の人達は私のことを、つかみどころのない人だと思っているだろうし、遠慮しがちな接し方を私にはする。

 

それでも、日曜の早起きを厭わず続けている野球。これが好きなんだという自覚は、一応私にはある。でも、野球を心から楽しんでいるのかというと、ちょっと疑問符はあるのだ。

 

 

ここまで私が書いたことは、「考えすぎだよ」という人がいるかもしれない。アダルトチルドレンでなくても、心というのは、他人はおろか自分のもよくわからないと言われれば、100%の否定はできないだろうと私も思う。

 

とはいえ、現実の生活が生き生きとしておらず、支障をきたしているようなら、それは治した方がいいだろう。私の場合、「ミスや過ちや間違ったことを絶対にしてはいけない」とまで考えるのは、極端な思い込みで私自身に悪影響が出ている。

 

だから、程度問題だと考えるのだ。「いつも完璧にできることなど、あり得ない。何とかやり過ごすだけの日もあって当然だ」くらいに考えおくのが、きっと程よい状態だろう。

 

 

では、「先の予定のことを憂いて過ごすことが、少なくなった」私には、どんな行動の変化が現れたのか。

 

例を挙げると、「寝る時間が少なくてもかまわないや」と考えて、今日やっておきたいことを優先させたり、「忙しくても何とかなるだろう」と考えて、前後の予定をあまり顧みないまま予定を入れたりしている。

 

現に、今週に入ってから夜は確定申告を進めなければならない中で、明日はその夜にテニスをする予定もある。このブログも、今の私にとって大切だから、夜に時間を割いて毎日書こうと思っている。

 

ちょっと前の私であれば、「あぁ寝る時間が減る…どうしよう、どうしよう…」みたいなことを考え、不安に押しつぶされそうになっていただろう。テニスなんか、そもそもしようとしないと思う。

 

それが今、不安な気持ちは起きていない。寝る時間なんか多少減ったって、何とかなると思っている。

 

だいたい、振り返ってみると、かつて抱いたそうした不安のほとんどは、杞憂であった。客観的にもそうなのだから、ほとんどのことはどうにかなるのだ。

 

 

今の状態を、今後も定着させたい。

無条件の愛は、親以外から受けられる?これって、現実逃避では?

アダルトチルドレン克服。今日は可もなく不可もなく…といったところか。

 

ただ、やはり日々の中でまだ、かなりの怒りが込み上げてきたり、他人といる時に不必要に憶病になっている自分を発見することがある。

 

そんな時は、「ああ、俺はアダルトチルドレンだからな…」と言い聞かせる。すると、心が平穏に向かっていく。これは以前も書いたことだけど。

 

もちろん、生きていく上であまり意味をなさない怒りや憶病になる気持ちは、無い方がいい。それが目標だ。

 

 

そんなこんなで特筆すべきことはない今日は、最近思い至った「これもアダルトチルドレンだからか?」という私の症状を、振り返ってみたい。

 

それはなにかというと、私は寝る前にいつも、他人から無条件に注目されたり、愛されている姿を想像してしまっていることだ。

 

実は、これはかれこれ、小学生くらいから続いている気がする。

 

自分がケガや病気をして、友達やクラスメイトから心配されているところを空想したり、過去に自分を好きになってくれた人のそばにいる自分を、必死に思い出したり。

 

義務教育から大人へと生きた時代のそれぞれで、想像の中の自分の姿は変化している。ただ、ずっと共通しているのは、「私は無条件の注目と愛を、ただ受け身の姿で受けていること」と、「親は全く登場しないこと」だ。

 

ここまで整理して書けば、「あれ?」と思う。

 

無条件の注目と愛というのは、まず親から受けられるものではないか?

 

しかし、私が寝る前に想像しているのは、親以外の人から無条件に愛情を注がれている、自分の姿なのである。

 

繰り返すが、親は絶対に登場しないのだ。

 

 

結論から言えば、私はいつも寝る前に、現実逃避をしているのだろう。現実世界では、親の愛情や承認を受けられなかった。だから、他の人からそれを受けられている自分を想像して…。

 

そして実はこれ、自分の中ではかなり重症な、アダルトチルドレンの症状ではないかと思っている。

 

ではどのように、この症状を緩和すればいいかというと、まだよくわからない。ただ、「なんかもっと前向きに、主体性を持って行動している自分の姿を想像してもいいのではないか?」と、なんとなく思っていることは確かだ。

 

いや、むしろそう思ったから、全く反対のことをいつも寝る前に考えている自分に気づいたと言った方が正しい。

 

 

また、私は昔から、なかなか寝付けない人だ。こうした空想をしたり考え事をしていると、眠りにつくのが遅くなってしまう。

 

昔から、布団に入ればすぐ寝られる人を、羨ましく思っている。もしかしたら、今もしている愛され空想などせずに、横になったらすぐ「おやすみなさい」ができる状態になるのが、最もわかりやすい私の理想なのかもしれない。

アダルトチルドレンから抜け出そうとしている自分自身に、確信と自信が生まれた?

今日もまた一つ、成長できたと思う。

 

なんか、毎日、ワンステップずつ。ちょっと、順調すぎやしないか。

 

とはいえ、私がアダルトチルドレンを知ったのは、ここ最近のことではない。過去に何度もうつ状態を経験したから、人に起こる精神的な問題についてはかなり学んだ。自分で、自分のことを知るために。

 

アダルトチルドレンも、その中の一つだった。そしてなんとなく、自分もそうなのではないかと思ってもいた。

 

でも、うつ状態になったらまず治すことしか頭になくなるし、治ったら治ったで、自分のことを振り返る余裕はなかった。

 

今は、毎日のように仕事をしているけれども、自分を振り返ることも毎日できる。だから、自分がアダルトチルドレンであることをはっきりと確認できたし、またそれを克服する、絶好のチャンスだとも考えている。

 

 

そして、今日の成長の話に戻ろう。

 

 

今日は日曜で、草野球の日。だいたいよくいるメンバーと顔を合わせたわけだが、なんだかいつもより、リラックスできていた。自分がその集団の中にいるという、確信というか、アイデンティティを少し持てた状態で。

 

私自身は、今の草野球チームに入って、だいたい4年目くらいだと思う。途中色々あって、なかなか参加できなかった期間もあったけれども、それでも4年間所属して極力参加していれば、だいたいよくいるメンバーは「顔なじみ」の関係にはなる。

 

ところが、だ。

 

私はつい最近、というか先週の前回まで、このチーム内で行動している時、異様に緊張していた。

 

しかしチームにいる人は、客観的に考えてみんないい人だ。それに野球という、共通の好きことを持つ人の集まりでもある。今思えば、私自身もそこまで緊張する必要もないし、もっと自然体でいられたはずの集団なのだ。

 

それが、私の心の奥底のスタンスとしては、「野球はしたいけど話はあまりしたくない」だった。まあ世の中色んな人がいて、自分自身が無理に話好きになる必要はないと思うけど、緊張してガッチリ壁を作ってガードして、心の交流まで防御するのもバカげている。

 

でも、そのバカげていたのが、これまでの私だった。

 

 

では、なんで今日はリラックスできたんだろう?なんでリラックスできた結果、チームの人とこれまでより、自然な会話もできたのだろう(そう、自然な会話ができて、私はとても嬉しかったものだ)?

 

やっぱり、自分がアダルトチルドレンであって、なんだか普通の人の感覚と違ってこれまで生きてきたことに、気づいたからだと思う。

 

これは、なんだか逆説的だ。アダルトチルドレンである私は、自分という存在と感情に、確信も自信もない。しかし、自分がアダルトチルドレンであることがハッキリわかると、そこから抜け出そうとしている自分自身に、確信と自信が生まれてきたのだ。

 

確信と自信があるから、リラックスできる。そんな不思議な感じだと思う。

 

まあ、この問いに対する回答は、私自身の中にしかないけれど。頑張って説明すると、こういうことになる。

 

 

さらに突っ込んで、今日の最後。私はなぜ、アダルトチルドレンに自分で気づくことができたのか?

 

これは、私が本当に育ちのいい人たち(金銭的に裕福な家庭に生まれたとかではなく)しかいないような環境に、いることができたからだと思う。

 

具体的には、大学から後の時代だ。

 

機能不全家族で育ったのは精神的に辛いことばかりだったけれど、幸い、私は勉強はそこまで苦手ではなかった。そしてひと勉強して、大学に入れた。

 

入ったのは、早稲田大学。そこには、親のように不平不満をタラタラ並べてひたすら他人のせいにするのとは正反対に、自分であれこれ動いて道を開いていこうという人が多かった。

 

基本的に、当時の私の周りのみんなは、人間としての自分に疑いはなく、自信があったのだ。

 

それに対し、私は自分に全く自信がなかった。もちろん、受験勉強の成果という意味では、他人に認められる結果は出した。でも、人間としての自信にはならない。自分自身、どこかふわりとした存在だった。

 

周りの人を見て、「なぜみんな、こんなに自信があるのだろう?」と、なんとなく思っていた。「みんな、自分とはどこか違うな」とも、感じ取っていた。

 

その解答は、私の育ちとアダルトチルドレンにあるのだけど、ともかく、ちゃんとした家庭に育ち自信があり、さらに能力まである人たちの中にいることができたのは、幸いだった。いつもそういう人たちに囲まれていれば、彼らの思考や行動パターンというのは、なんとなくわかるものだ。

 

彼らの思考と行動パターン。それは、私と全く違ったのだ。

 

本当はその頃に、もっとはっきりと自分がアダルトチルドレンであることを認識し、対処出来ていればよかった。ただ、精神というのは厄介であり、難しい。一度染みついたまま成長した精神は、なかなか客観的に見られないし、根底から覆えすのもまた、多大な困難を伴う。

 

とはいえ、過去を悔やむのは生産的でない。それより、遅かったとはいえ幸いにして認識できたのだから、これから何とかするしかないと考えるより、ほかはない。

 

仮にアダルトチルドレンだと気づかないまま、この先何十年も生きるのだとしたら…ぞっとする。

アダルトチルドレンにできることは、これからの人生を大切にすることだけ

ちょっとずつだけれど、成長はしていると感じる。

 

今日も、怒りと憎しみの感情が湧いてきた。親との接触は無いのに、過去を思い出したりして。自分でも幼稚だとは思うが、これぞアダルトチルドレンという感じもする。

 

ただ、今日はそれによって激しい悲しみに襲われたり、疲れてしまうようなことはなかった。

 

怒りや憎しみ。これは今の私にとって、仕方ないんだなという、諦念と悟りのような考えもまた、あったからだと思う。

 

そう考えると、なんだか心穏やかになったのだ。

 

うん。今はまだ、これでいい。

 

 

そんなこんなで、ちょっと落ち着いては来たんだろう。すると今度は、「はぁ~なんで俺はこんな目にあってしまったんだろう…」という思いも出てきた。

 

これは多分に私なりの解釈だけど(とはいえ、アダルトチルドレンに対する一般的な見方とも、ズレていないと思う)、アダルトチルドレンは、子どもの頃よりずっと牢獄に閉じ込められてきたようなものだ。

 

気持ち、心、精神…、そういったものが、檻の中にずっと入ったまま出られない。それでも、生きている以上、何らかの感情は湧く。でもその感情、「好き」も「嫌い」も「楽しい」でもなんでも、それを持っているのは鎖で繋がれた、自由のきかない私のもの。

 

だから、本当に自分自身から出た感情だとは思えない。何かに支配され、命ぜられた感情のような気がするのだ。

 

まぁ、その何かというのは、親なのだけれど。

 

 

アダルトチルドレンの原因は、家庭である。ただ、それも単に、親が何かしらの問題を抱えているからという、短絡的な話でもない。たぶん、どんな家庭でも、一つや二つの問題は抱えているだろう。もっと多くて、当たり前かもしれない。

 

問題がある結果生じる、家庭としての決定的な機能不全。これが、アダルトチルドレンを生む決定的な要因だ。

 

私の子どもの頃の場合、家はとにかく暗くどよ~んとしていた。母親は愚痴や文句や現状否定ばかりするし、私にとって家は居心地が悪く、できればいたくなかった場所だった。

 

でも当時は、自分の家が機能不全だとはわからなかった。それもそのはず。はっきりと認識したのは、恥ずかしながら最近である。

 

いろんな経験を積んだ今なら、ハッキリと言える。私の家庭はとても暗く居心地が悪くて、全く家庭としての機能を果たしていなかった。

 

 

そんなことまで考えさせられると、「なんで俺がこんな目に合わなければならなかったのだ」と、やっぱり思ってしまう。親あっての子どもだが、子どもは親を選べない。

 

機能不全の家庭に生まれたのは悲劇だが、過去は変えられない。また、親のせいにしたいところだけど、したところで、今これからの自分がどうなるわけでもない。

 

アダルトチルドレンにできることは、これからの人生を、自分で大切にすることだけなのだ。

 

パッと簡単にできるものではないけど、自分ならできると思っている。

 

 

 

自分の気持ちに否定もフタもしないことが、ちょっとだけわかった日

今日は、憎しみと悲しみとに支配された昨日と打って変わって、割と平穏な気持ちで過ごせた。

 

なんだろう、この波は。激しい心の苦痛の後に来た、ちょっとした穏やかさ。これを繰り返したら、いつか穏やかな気持ちが続くようになって、アダルトチルドレンから脱却できるのだろうか。

 

そう願いたい。

 

また今日は、ふと何かの気持ちが湧いたときに、「自分の気持ちは自分の気持ちでいいのだ」と、自然と思えることがあった。

 

その気持ちというのは、「今日の仕事は面倒だな」という、ちょっとマイナスなことだったけれど。

 

ただ、これまでの私はマイナスな気持ちが生まれたら、「こんなのではいけないんだ」「だから他の人に比べてダメなんだ」「これだから人に嫌われてしまうんだ」みたいな強迫観念に、無意識に支配されていたように思う。

 

それが今日は自然に、「面倒くさい気持ちは仕方ないし、これが俺の気持ちなんだな」と、自然に認めていた。

 

そして、いつもこういう境地になれればいいんだろうなと思った。

 

これはきっと、アダルトチルドレン脱却に向けて良い感じだ。面倒くさくても、仕事は仕事ですればいいのだ。面倒くさいという自分の気持ちまで、否定することはない。

 

逆に、「好き」という気持ちも、自分で否定することはない。

 

「好き」も「嫌い」も、気持ちにフタをしなくていいのだ。それを今更、なんとなくわかってきたところが、ちょっと悲しいけれども…。

 

最近、ミスチルTomorrow never knowsのフレーズを、心の中で繰り返しています。

 

「心のまま僕はゆくのさ、誰も知ることのない明日へ」

 

歌全体の本意とは外れるけれども、今は心を大切にし、そのままゆく(=私なりの解釈で「認める」)ことが、自分にとって大切。

 

またこれから聞こうかな。

こうして私は、アダルトチルドレンになった

ダメだな、今日は。

 

頭がフリーになると、強烈に子どもの頃の記憶が襲ってくる。そして、母親に対する激しい怒りと憎しみに、心が支配される。

 

ああ、アダルトチルドレン完全解放までは、まだ道遠し。

 

なので、今日はいっそ、今憎らしく思っている子どもの頃の記憶を、吐き出してしまおう。

 

こうして、私はアダルトチルドレンになったのだ。

 

家でいつも愚痴や文句、不平不満を聞かされる

母親はことあるごとに、家族の前で愚痴などを言う。「〇〇さんはねぇ…ちょっと考えられないわよね」「あの人あんな高そうな車買っちゃって、見栄っ張りなのかしら」「この前行ったお店、全然おいしくないわよ」等々。口から出てくるのは、そんな話ばかりだった。

 

べつに、その一つ一つの発言に、当時の私は腹を立てたりしたわけではない。ただ、家庭内はいつもどよ~んと暗かった。一方、母親のそばで心から笑ったことなど、記憶にない。

 

常に私を誰かと比較して、母親自身の成果にしようとする

私はいつでも、勉強のできる友だちや、優秀な親戚と比較された。「〇〇君は立派よねぇ勉強できて」「〇〇ちゃん(いとこの人)は、こんなにすごいんだって」。テレビを見ては、「こんなえらい子もいるんだね~」など。

 

べつに当時の私は、自分の成績には興味がなかったし、また成績の良し悪しで友達と付き合っていたわけではない。

 

一方で確かに、学校での生活態度は悪く、それは通知表にも出ていたし、家庭訪問などでは先生からも言われていただろう。

 

とはいえ、今思えば、何もそこまでヒステリックになって、私を他人と比較し攻撃するほどのことではない。犯罪を犯していたわけではないし、同類の友達だって、いくらでもいたのだ。

 

これは確信なのだが、母親は私を良い子にすることによって、素晴らしき母親という自信とアイデンティティを得たかったのだろう。元々母親自身には、自信がないために。

 

だが私は、母親の理想とする「良い子」には、本能によってなることはできない。なるとすれば、それは自分の本能に嘘偽りをすることによってのみ。

 

私はいつも、母親の前で居心地が悪かった。自分の思うまま行動すれば、必ず他人と比較され文句を言われる。

 

しかし逃げられないのだから、だんだん自分の殻にこもるしかなかった。

 

好きな漫画を真っ二つに引き裂かれる

これは今でもはっきり覚えている、泣きじゃくったトラウマだ。

 

私は、母親の「勉強しなさい」の命令に背いて、好きな漫画に熱中していた。すると母親がキレて漫画を取り上げ、目の前で真っ二つに引き裂いてしまったのだ。

 

私はあの悲しみを、今でも明確に覚えている。悲しくて悲しくて、しばらく涙が止まらなかった。

 

漫画はテープで貼り付けて直したけれども、私の心は今でも治っていない。

 

約束していた私の希望に反して、勝手に選んだものを買ってくる

私には、友達何人かとお揃いの、ほしい靴があった。そして、次買ってもらう靴はそれにしてもらうという約束も、母親としていた。

 

そして、その日が来た。ところが帰って言われたことは、「こっちの方が良かったから、これを買ってきたの」。

 

約束が違うじゃないか。本当に、あの靴が欲しかったのに。

 

私は泣きわめいて、深く傷ついた。

 

そしたら母親は、「それならこれは自分で返しに行って、自分で買ってきなさい」。

 

私は当時小学6年生だから、そのくらいはできるようになっていた。そこで自分でお店に行って返して、自分の欲しかった靴を改めて買ってきた。

 

靴は手に入った。だが、私の心には約束を破られたという深い傷が残った。

 

 

これ以外にも、思い返せば色々出てくるだろう。何せ私は、毎日のように泣きわめいていたのだ。

 

そして泣きわめいたら言われることは、「昔はかわいかったのにねぇ」や「近所に聞こえるでしょ、いい加減やめなさい」くらいだったなぁ。

 

 

書いていて、とても悲しくなった。一体、自分は何だったのだろう。またふと思い出したが、授業参観も、終わった後には必ず怒られるから、いつも来てほしくないなぁと思っていたっけ。

 

悲しくて、悲しくて、悲しくて…。アダルトチルドレンから抜け出した先には、どんな景色が待っているのか、まだ見えない。